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【続編】グロムを取り返したくてモンキー125を見せてみたら、まさかの返り討ちだった話

――そして思い知らされた“バイクの思い出補正”の威力

■ 奪われたグロム、俺の通勤バイク

以前の記事でも書いたが、通勤用に選んだ理想のバイク「グロム」は、
いつの間にか嫁のものになっていた。

軽くて、足つきがよくて、かわいくて。
さらにローダウン&あんこ抜きまで施して“嫁専用マシン”へと進化。
いまや、厚底スニーカーで颯爽と通勤している。

だが、正直、俺はちょっと寂しかった。
いや、かなり寂しかった。

せっかく通勤にレースに楽しもうとしてのに!

■ 取り返す作戦:モンキー125という“刺客”

そこで考えた。
「もっと見た目が可愛くて、足つきもいいバイクを見せれば、
あっさり乗り換えるのでは?」

そんな下心と期待を込めて、ある日、モンキー125を“見せに”行った。
最新のレトロルック。愛嬌あるフォルム。
「これは……ワンチャンある」と内心ほくそ笑んでいた。

■ 店頭にて、沈黙

バイクショップに到着し、俺はモンキー125の前で「どう?」と話しかけた。
彼女はちらっと見る。
……が、沈黙。

「ん?」と思って顔を見ると、めっちゃテンションが低い。

そのまま静かに跨らせてみた。
だが、彼女の表情は終始変わらない。

むしろ、眉間にほんの少ししわが寄っていた。

■ 「これ、なんかニセモノっぽくてヤダ」

ようやく出た言葉が、これだった。

「これ……なんか、ニセモノっぽくてヤダ」

おおう。はっきり言ったな。
しかも、その言い方に敵意すら感じる

普通の人なら「かわいい〜!」とか「レトロでいいじゃん〜」とか言うはずなのに、
うちの嫁の反応は冷徹だった。

■ 原因は“ゴリラ50”にあった

ふと思い出した。
我が家には、ゴリラ50 スプリングコレクションがある。

彼女がまだ普通自動二輪の教習所に通う前、
ギア付きバイクってなんなのかもわからなかった頃。

そのとき彼女に最初に触らせたのが、このゴリラだった。

セルはなく、キックのみ。
燃料計なんてもちろんない。
クラッチは重め、ブレーキも甘い。

だけど、それがよかった。

始動の儀式からひとつずつ覚えていく、
そんな“濃い練習時間”を一緒に過ごしたのが、このバイクだった。

転びながら、エンストしながら、手を汚して、汗をかいて。

「できた!」と笑った顔、
「無理……」と嘆いた声。

その全部が、このゴリラと一緒だった。

あのとき、彼女はきっとバイクに“信頼”を置くようになったんだと思う。
乗れば答えてくれる、ちゃんと扱えば裏切らない――。

小さくても、本気で向き合えば応えてくれる。
そんな体験が、彼女の中で「バイクとはこういうもの」という基準を作ってしまった。

そして、その延長線上にあるのがグロムなのだ。

あの“実直さ”や“変に飾らない感じ”、
サイズ感や、ちょっと頑固な操作感すら、彼女にとっては「安心する」要素になっている。

■ 「グロムのほうが“ちゃんとしてる”から」

店を出たあと、彼女がポツリと言った。

「グロムのほうが“ちゃんとしてる”から。モンキーは、なんか違う」

なるほど、そうか……。

──これはもう、“見た目”の話じゃない。
バイクには、“記憶”と“信頼感”が染みついているのだ。

■ グロム奪還、完全敗北

当然のように、彼女はグロムで通勤を続けている。

あの厚底スニーカーを履いて、セル一発で走り出すその背中。
もう完全に「自分のバイク」って顔してる。

──ちょっとだけ誇らしくて、
──でもやっぱり、めちゃくちゃ悔しい。

■ 最後に:バイクの“好き”は、過去が決める

モンキー125はスペック的にも悪くなかった。
かわいげもあった(少なくとも俺には)。

でも彼女にとっては、バイクとは“思い出”そのもの。
ゴリラでクラッチを覚えた日々。
そこから繋がる道に、グロムがあって。
その流れに、モンキー125は入る余地がなかった。

俺の目論見は、完敗。
でも、グロムが彼女の「本物」になっているなら、それはそれでいいのかもしれない。

──次にバイクを取り返すチャンスがあるとしたら、
「過去に寄り添えるバイク」しかないのだろう。